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タイトル:『新美南吉童話集』
  編者:千葉俊二
出版社:『岩波文庫』
出版年:1996年

 ハンドルネーム;"yusuke"

本を一冊読み終えた後に残る余韻が、これほどまでに大きかった事例はこれまでそう多くは無い。同じ児童文学作家として知られる宮沢賢治や鈴木三重吉の作品を一通り読んだにも関わらず、新美南吉は「ごんぎつね」のみでとどまっていたことがとても残念でならなかった。「自分はこんなに児童文学にのめりこめたのか」と、昔読んだ宮沢賢治の作品集を今一度読み返してはみたのだが、やはり新美南吉が訴えかけてくるものの方が圧倒的にまさっていた。

では、何故僕が彼の作品からこれほどまでに深い感銘を受けたのか。その答えは、児童文学という枠組みを超え、新美南吉が作品全体を使って表現しようとしたある大きなテーマによって導き出されると考えられる。そのテーマとは「人間という生き物の本質」以外の何ものでもない。南吉は我々に「人間の本質」を伝え、物語に教訓的な内容を付随させたのである。そして、その「人間の本質」を的確に表現するための方法にも南吉独自の工夫が見られるのだ。彼は「動物」と「純粋無垢な子供」を登場させ、人間と対比することによって「人間の本質」を見事に表現している。

例えば「花のき村と盗賊たち」という作品では、盗賊の親分と、地蔵の化身である童子という全く相反するものを持ってくることで、盗賊としての人間性(人間の醜い部分)をはっきりと示しているのである。この場合、童子は人間としての本質を見る際には「無」に限りなく近い状態であるので、より一層盗賊の人間性が引き立つのである。そして童子と接した盗賊が、今まで冷たい扱いをされてきた自分が頼りにされたことを嬉しく思い、涙を流す場面は「善と悪の両面を兼ね備えた「人間」という生き物」のかわいらしさが見えてくる。「うた時計」でも、純粋無垢な少年と、年を重ね人間の汚さを持つようになった男が対比されて描かれているが、ここでも「花のき村と盗賊たち」と同じように、子供の純粋な心に接する事で人間の醜い部分が消化され、暖かい部分が現れてくるのである。また、これとは逆に「狐」においては、人間の温かい部分が文六ちゃんという「無」と対比されることによってより引き立っている。自分が狐になってしまったらと体を震わせて恐怖を感じている文六ちゃんと、文六ちゃんをしっかりと抱き寄せて受け答えをする母親の母性愛が溢れんばかりに表れている。「手袋を買いに」でも人間の温かさが子狐という「無」と対比されることで表現されている。

 以上に示した作品は、様々な要素を持ち合わせた人間と、何の要素も持ち合わせていない「無」としての動物や子供を対比させることで人間の本質を表した例である。ここでは「人」と(「人」あるいは「動物」)が対比されてきたのだが、この他にも南吉は色々なものを人間と対比させている。

幼い頃から村を回り胡弓を演奏し続けるが、時代が進むにつれ胡弓が受け入れられなくなり、苦悩をする松太郎の姿を描いた「最後の胡弓引き」。文明開化の波とともに電気が登場し、ランプ商としての絶望感に苛まれながらも、最後には本屋に転身し幸せな生活を送る「おじいさんのランプ」。それまで村の人々に愛されてきた鐘が、戦時下という時代背景のもと、爆弾に変えられるために献納される時の様子を描いた「ごんごろ鐘」。これら3つの作品に共通する点は、人間と(あるいはメタファーとしての人間と)時間・空間を対比する事によって、人間の本質を表現していることである。「おじいさんのランプ」の終わりで、おじいさんは「いつまでもきたなく古い商売にかじりついていたり、自分の商売がはやっていた昔のほうがよかったりといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことは決してしないということだ」と言っている。また「ごんごろ鐘」では、「古いものは新しいものに生まれ変わって、はじめて役立つと言うことに違いない。」とこの話の最後を飾っている。「最後の胡弓弾き」では木之助が最後まで胡弓にこだわっていた為に、なんとも後味の悪い結末になっている。上記の例からも分るように、この3つの作品では時間・空間の対峙に人間をおきながら、人間の様々な行動を書き記しているのである。

このほか僕が個人的に最も惹かれた作品である「百姓の足、坊さんの足」や「久野君の話」からは生きる上での強い教訓性が見て取れる。

この評論で、僕は南吉の作品における「人間という生き物の本質」というテーマを展開してきたのだが、最後に1つ付け加えて置きたい事がある。それは、南吉は人間の本質をテーマにしながら、同時に「人間の素晴らしさ」と伝えようとしているとも思われるのだ。上記の作品の他に、「屁」や「和太郎さんと牛」を見てみても、それははっきりと分る。石太郎に嫌悪感を抱きながらも自分の失敗を人に擦り付けてしまったことを心から後悔する春吉君の道徳観、酒の誘惑に勝てないながらも、一方では牛を思いやる和太郎の優しさなどを作品中から読み取ると、見ている側の心はとても温かくなる。僕が南吉の作品から受け取ったメッセージは、彼が短い生涯の中で感じ取った、人間の本質、すなわち人間の素晴らしさなのかもしれない。

 

   

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